思考の掃き溜め

20代/雑記/気まぐれ更新

自分にとってゲームが「娯楽」の域を超えてしまっている話

 私は、ゲームオタクである。本当のオタクの人達の人から見ればオタクではないかも知れないが、一般の人から言えばオタクに該当する位はオタクだと思う(プレイ時間1500h↑が数作品あるし)。特に対戦ゲームをよくするのだが、プレイ自体も面白いし、戦術を考えている時も楽しい。勝っても負けても、また考えてプレイして…と繰り返して楽しめている。

 ただ、ここ最近ある考えがよぎる事がある。それは

「自分にとってのゲームが『娯楽』の域を超えてしまっているし、このまま時間を消費してて良いのだろうか」

と。

 娯楽として消費できているのであれば、メンタルやストレス解消に最適なのだが、そこの熱量が娯楽として安全なものでないと感じることが多くなった。人生というのを主軸にして生活すべきなはずなのに、ゲームを主軸にして生活している感じが、どうも最近の私は危機を覚えている。生活に支障をきたすほどの熱量ではないのだが、仕事:ゲーム=3:7で、そのほかの事に殆ど時間を割いていない現実が不安を駆り立てている。

 20代で出来た差は埋まらないという言説があると思うが、どんな年代だろうと差は埋まらないのだろう。しかしこの差をより広げない為にも、埋める努力が必要であり、今の私にとってそれが足りていない。その足りなさを感じたまま、ゲームをしているその状況を客観視したときに、良い未来が見えてこない。ゲームという娯楽を否定するつもりもないし、したくもないのだが、他趣味と比べて、成長として得られる成分が、どうも少なく感じている。だからこそ、「娯楽」の域を超えてしまった私にとって、まずは「娯楽」の域に戻す行為が必要になってくるのだろう。

ジャーナリング(日記)を書くようになってから変化したこと

 新年度も始まったことだし、何か新しいことを始めようと思い、ジャーナリングを始めることにした。

 取りあえず、1ヶ月は毎日記入してみて、変化が見られるかを確認することにした。

 私はiPhoneを使っているので純正アプリのジャーナルを使って書き込むことにした。ジャーナリングについて色々調べて見ると、ノートや手帳などの紙に書き込んでやるのが効果的だと述べている人も多く見られたが、私の人間としての特徴を見るに、書いた記録が数値として表示されたり、得られたデータを管理しやすい方を選んだ方が長続きしやすいので、iPhoneでやることにした。

 そして実際に書き進めて、自分の思考の癖を言語化して、纏める作業が想像以上に面白い。私という人間がどんなことを考え、感じているかが目に見える形に残り、その考えをより深化させられている気がする。

 内容の傾向としては、「恋愛」「幸・不幸」「社会」「読書」によった。

 後は、物事一つ一つに対してより丁寧に受け止められるようになったと感じる。

 そして書いた内容をAIに投げてより解析してもらい、自己理解を図っている感じ。

 取りあえずもう少し続けて、考え方とか変わったらよきかな。

 

弱者性の吐露に潜む危険性について

 これは「自分が吐露すること」を指すだけでなく、「誰かが吐露すること」も含めての弱者性の吐露に潜む危険性について考えてみた。

 

 まずは「自分が吐露すること」の危険性についてだが、それは、弱者性を利用したアイデンティティの獲得と、弱みを相手に晒してしまうこと。

 弱者性を利用してアイデンティティを確立すると、その弱者性を極端に捨てたいと思うも、それができない自己嫌悪か、捨てた後に失うのが怖くて維持したがるかになる。吐露することが多くなるほど、変わりたいと思った時に必要なエネルギーがより大きくなる。そして、相手に弱みを晒すと、人によっては煽ったりと、その弱者性を助長しかねないのではないかと考えている。

 

 「誰かが吐露すること」の危険性についてだが、同じ弱者性でも自分自身と同一ではないし、その再現性も十分ではない。そしてその誰かが弱者性から脱却したとき同一的な弱者性を抱えている者に対して、時に異常なほどに露悪的な言動になりかねない事が多い。

 前者に至っては、私含めて大多数がしがちなので気をつけたいのだが、所謂ビリギャルの様に、ビリギャル(ただし、彼女は環境的にも勉学に対して理解が大きい。ビリでも進学校のビリであって、全体で見れば上の層にいる)みたいな話で、表面的・語彙的には同じ弱者性を抱えていても、内実は多種多様で、その誰かは自分より酷な存在であることは少なくない。その表面だけ受け取って、自分と同じと安易に考えてしまうのは危険である。

 そして後者の露悪的な言動が多くなるのは、その弱者性を克服したエネルギー消費の反動で、自己優位性の誇示や今までのアイデンティティの消失をどうにか埋めようとしている。私から言わせれてば醜態をさらしているようにしか見えないのだが…。

 私がなぜこれが醜態を晒しているように見えるのかと言うのなら、その弱者性の克服は一般的には平然と成し遂げる「普通」になっただけであって、何かを平均から抜け出して成し遂げた訳ではないのに、なぜそれ程までに、自分がお前達とは違うと思ってしまうのかが甚だ疑問だからである。きっと冷笑家が言えば

 

「いや、それ普通になっただけやんw」

 

 ってもの。

 そしてそういった露悪的な言動をする人ほど、その弱者性を現実で笑われてきた奴が多いのは何故であろうか。自分を虐げてきた奴等と同一の存在になっていることに気がついていないのだろうか。それかその気がない「悪意のない悪意」なのだろうか。

 

 実際に自分がもつ弱者性を後天的に克服したときには、同じ罠にハマる可能性は十分にありうるので、人に曝け出さないようにしたい。

 それは敵を作らないのと同時に、弱みを晒さないのと同じ…だ。

 

ズレ

 社会人になって半年以上が経ち、学生時代以上に幅広い年齢層や出で立ちの人と会うことが増えた。自分の生き様ってのは、大きくズレていたつもりってのは全く無かったし、後悔というのもない。

 けれども、日々を過ごしている中で、そのズレってのを感じる場面が増えてるような気がする。それは単純に試行回数が増えただけってのもあるとは思うのだけれどもね。

 趣味とか、中心的な話題とか、色々。その違いに価値の差も無いし、善し悪しで判断されるものではないんだけれども、このズレを異世代間で感じるなら別にそれは世代間格差の一言で片付けられるけれども、その違いを同世代間でも感じてる。自分がマイノリティ側ってのがハッキリと認知してしまうくらいには、ズレってのを感じる。

 まぁそりゃあそうとしか言えないよな。だって、SNSで論客気取りしているような自分と、外コミュニティで活動している人達で、差が無いわけがない。SNSで活動しているとそのコミュニティってのは大きく感じるけど、いざ外に出てみれば、それを軸としている奴なんて意外と、というかほとんどいない。

 ただ、ここから先、この差を埋めることができるか(埋める必要があるかの是非は兎も角)というと、結構難しいんじゃないかなって思うんですよ。まず、今の軸を外して、外コミュニティでやっていける自信も資産もないんですよ。裸一貫で進む必要があるのって今から出来る気がしない。これが例え出来たとしても、今はコンテンツが溢れすぎて、万人にあわせるのが無理難題なのでは?と思うのです。昔ならテレビとスポーツ系を追ってれば70%位は話をあわせる事ってできると思うんですけど、今ってコンテンツ過多で、20~30%位しか合わなくないですか?その値であわせても正直話って面白いですか?だったらもう夫々好きなことしてる方が良くないですか?って思ってしまうんですよね。きっとこの考え方もズレているんでしょうけども。

 世間様はその努力さえ惜しまずに過ごしているなら、もう私には世間にあわせること何て敵えません。

空

 よくXとかで自分の不幸について嘆くヒトって一定数いるじゃないですか。それも少なくない数で。

 以前の私はそういう風にいう事って別に良いというか大切だよね派だったんですけど、

millennium.hateblo.jp

 結局これって、ただの不幸である自分の事の承認の繰り返しでしか無いよなって最近思うんですよ。別に現実でそんなことは言いませんけど。

 自分のことを認められるのって自分だけだし、救う事だって自分しか出来ないよね。って。

 でも、そういう人達がでてしまうってのも全然わからなくもないし、自分だってそういう時はあるんですよ。とくに社会に出てから。

 「あぁ、このヒトは不幸を感じずに過ごしてきたんだなぁ」

とかね。実際、そんなことはないとは後からは思うんだけれども、その場で聞いてるとそう感じちゃうんだよね。

 というか実際は、その話を聞いて自分の空っぽさに憂いて不幸に善がってるだけなんだろうけどさ。あの人のように誇れる凄さもない、かといってXにいるヒト達のように嘆くほど不幸な立場であるかというと、そうではない。なんというか、幸せではあるはずなんだけど、誇れるものがない(=自己肯定感がない)から、変な感覚を覚えてしまうんだなぁ…。