思考の掃き溜め

20代/雑記/気まぐれ更新

ジャーナリング(日記)を書くようになってから変化したこと

 新年度も始まったことだし、何か新しいことを始めようと思い、ジャーナリングを始めることにした。

 取りあえず、1ヶ月は毎日記入してみて、変化が見られるかを確認することにした。

 私はiPhoneを使っているので純正アプリのジャーナルを使って書き込むことにした。ジャーナリングについて色々調べて見ると、ノートや手帳などの紙に書き込んでやるのが効果的だと述べている人も多く見られたが、私の人間としての特徴を見るに、書いた記録が数値として表示されたり、得られたデータを管理しやすい方を選んだ方が長続きしやすいので、iPhoneでやることにした。

 そして実際に書き進めて、自分の思考の癖を言語化して、纏める作業が想像以上に面白い。私という人間がどんなことを考え、感じているかが目に見える形に残り、その考えをより深化させられている気がする。

 内容の傾向としては、「恋愛」「幸・不幸」「社会」「読書」によった。

 後は、物事一つ一つに対してより丁寧に受け止められるようになったと感じる。

 そして書いた内容をAIに投げてより解析してもらい、自己理解を図っている感じ。

 取りあえずもう少し続けて、考え方とか変わったらよきかな。

 

弱者性の吐露に潜む危険性について

 これは「自分が吐露すること」を指すだけでなく、「誰かが吐露すること」も含めての弱者性の吐露に潜む危険性について考えてみた。

 

 まずは「自分が吐露すること」の危険性についてだが、それは、弱者性を利用したアイデンティティの獲得と、弱みを相手に晒してしまうこと。

 弱者性を利用してアイデンティティを確立すると、その弱者性を極端に捨てたいと思うも、それができない自己嫌悪か、捨てた後に失うのが怖くて維持したがるかになる。吐露することが多くなるほど、変わりたいと思った時に必要なエネルギーがより大きくなる。そして、相手に弱みを晒すと、人によっては煽ったりと、その弱者性を助長しかねないのではないかと考えている。

 

 「誰かが吐露すること」の危険性についてだが、同じ弱者性でも自分自身と同一ではないし、その再現性も十分ではない。そしてその誰かが弱者性から脱却したとき同一的な弱者性を抱えている者に対して、時に異常なほどに露悪的な言動になりかねない事が多い。

 前者に至っては、私含めて大多数がしがちなので気をつけたいのだが、所謂ビリギャルの様に、ビリギャル(ただし、彼女は環境的にも勉学に対して理解が大きい。ビリでも進学校のビリであって、全体で見れば上の層にいる)みたいな話で、表面的・語彙的には同じ弱者性を抱えていても、内実は多種多様で、その誰かは自分より酷な存在であることは少なくない。その表面だけ受け取って、自分と同じと安易に考えてしまうのは危険である。

 そして後者の露悪的な言動が多くなるのは、その弱者性を克服したエネルギー消費の反動で、自己優位性の誇示や今までのアイデンティティの消失をどうにか埋めようとしている。私から言わせれてば醜態をさらしているようにしか見えないのだが…。

 私がなぜこれが醜態を晒しているように見えるのかと言うのなら、その弱者性の克服は一般的には平然と成し遂げる「普通」になっただけであって、何かを平均から抜け出して成し遂げた訳ではないのに、なぜそれ程までに、自分がお前達とは違うと思ってしまうのかが甚だ疑問だからである。きっと冷笑家が言えば

 

「いや、それ普通になっただけやんw」

 

 ってもの。

 そしてそういった露悪的な言動をする人ほど、その弱者性を現実で笑われてきた奴が多いのは何故であろうか。自分を虐げてきた奴等と同一の存在になっていることに気がついていないのだろうか。それかその気がない「悪意のない悪意」なのだろうか。

 

 実際に自分がもつ弱者性を後天的に克服したときには、同じ罠にハマる可能性は十分にありうるので、人に曝け出さないようにしたい。

 それは敵を作らないのと同時に、弱みを晒さないのと同じ…だ。

 

ズレ

 社会人になって半年以上が経ち、学生時代以上に幅広い年齢層や出で立ちの人と会うことが増えた。自分の生き様ってのは、大きくズレていたつもりってのは全く無かったし、後悔というのもない。

 けれども、日々を過ごしている中で、そのズレってのを感じる場面が増えてるような気がする。それは単純に試行回数が増えただけってのもあるとは思うのだけれどもね。

 趣味とか、中心的な話題とか、色々。その違いに価値の差も無いし、善し悪しで判断されるものではないんだけれども、このズレを異世代間で感じるなら別にそれは世代間格差の一言で片付けられるけれども、その違いを同世代間でも感じてる。自分がマイノリティ側ってのがハッキリと認知してしまうくらいには、ズレってのを感じる。

 まぁそりゃあそうとしか言えないよな。だって、SNSで論客気取りしているような自分と、外コミュニティで活動している人達で、差が無いわけがない。SNSで活動しているとそのコミュニティってのは大きく感じるけど、いざ外に出てみれば、それを軸としている奴なんて意外と、というかほとんどいない。

 ただ、ここから先、この差を埋めることができるか(埋める必要があるかの是非は兎も角)というと、結構難しいんじゃないかなって思うんですよ。まず、今の軸を外して、外コミュニティでやっていける自信も資産もないんですよ。裸一貫で進む必要があるのって今から出来る気がしない。これが例え出来たとしても、今はコンテンツが溢れすぎて、万人にあわせるのが無理難題なのでは?と思うのです。昔ならテレビとスポーツ系を追ってれば70%位は話をあわせる事ってできると思うんですけど、今ってコンテンツ過多で、20~30%位しか合わなくないですか?その値であわせても正直話って面白いですか?だったらもう夫々好きなことしてる方が良くないですか?って思ってしまうんですよね。きっとこの考え方もズレているんでしょうけども。

 世間様はその努力さえ惜しまずに過ごしているなら、もう私には世間にあわせること何て敵えません。

 よくXとかで自分の不幸について嘆くヒトって一定数いるじゃないですか。それも少なくない数で。

 以前の私はそういう風にいう事って別に良いというか大切だよね派だったんですけど、

millennium.hateblo.jp

 結局これって、ただの不幸である自分の事の承認の繰り返しでしか無いよなって最近思うんですよ。別に現実でそんなことは言いませんけど。

 自分のことを認められるのって自分だけだし、救う事だって自分しか出来ないよね。って。

 でも、そういう人達がでてしまうってのも全然わからなくもないし、自分だってそういう時はあるんですよ。とくに社会に出てから。

 「あぁ、このヒトは不幸を感じずに過ごしてきたんだなぁ」

とかね。実際、そんなことはないとは後からは思うんだけれども、その場で聞いてるとそう感じちゃうんだよね。

 というか実際は、その話を聞いて自分の空っぽさに憂いて不幸に善がってるだけなんだろうけどさ。あの人のように誇れる凄さもない、かといってXにいるヒト達のように嘆くほど不幸な立場であるかというと、そうではない。なんというか、幸せではあるはずなんだけど、誇れるものがない(=自己肯定感がない)から、変な感覚を覚えてしまうんだなぁ…。

無料情報の代償:エロ系広告問題と情報価値の再考

はじめに

 近年、ゲーム攻略や料理レシピといった一般サイトが無料で提供される背景には、企業が収益確保のために広告収入に依存していると考えられる。このような状況下、エロ系広告が表示される傾向が観察されるが、これは一概に偶然ではなく、広告単価の高さという経済的合理性に基づいている可能性がある。本稿では、エロ系広告出現の背景、青少年保護の必要性とその線引きの難しさ、さらには「無料情報」という現象がもたらす情報の価値変容について、推論を交えながら検討するものである。

 

1. エロ広告出現の背景:高単価広告の収益構造の推論

 エロ系広告が一般サイトにも登場してしまうのは、広告単価が他ジャンルに比べると高いという経済的要因が大きく影響していると考えられる。たとえ閲覧しているコンテンツ自体が無縁だとしても、収益モデルの都合上の合理性からそういった広告が挿入される可能性はあり得ると推察される。

2.青少年保護の観点と表現の自由:線引きの難しさに関する考察

 インターネット上の情報環境において、青少年が容易にアクセスできるという状況は、広告の表示に対して一定の規定が求められるとも考えられる。しかし、どこまでが許容される表現であり、どこからが問題視されるのかという線引きは、必ずしも明確ではなく、実際には議論の余地が残る。性的表現ギリギリの漫画雑誌等(人それぞれの感性によって感覚も異なる点も踏まえて)も存在するため、表現の自由の観点と青少年保護とのバランスをどのように取るべきかについては、継続的な議論が必要であると考えられる。

 また、広告を運営している側、例えばGoogle AdSenseなどが一定の規制を設けたとしても、詐欺広告などの不正な広告がすり抜けて表示される可能性が十分にあることから、規制や線引きそのものが問題を完全に解決するとは考えにくい状況である。

3.利用規約とユーザーの立場:利用者が「使わせて貰う側」である点

 現在のアプリやウェブサイトでは、利用開始時に利用規約に同意する仕組みが採用されており、これは広告収入というビジネスモデルに基づいていると考えられる。このため、あらゆる広告は、ユーザーが「無料で情報を得られる対価」として受入れている一面がありと推論される。もしユーザーが広告表示を望まないのであれば、利用自体を回避するか、有料プランやアドブロックといった対策が必要になる。このような仕組みは、利用者が「使う側」ではなく「使わせて貰う側」としての立場を担っているとみることができる。

4.無料情報と情報価値の変容:対価構造の対比的考察

 数十年前まで、攻略本やレシピ本などの書籍は、情報を得るための直接的な対価として金銭を支払うモデルが主流であった。しかし、近年はインターネットの普及により、多くの情報が無料で提供されるようになった。その代りに「広告を掲載する対価」を払うことで情報を得る構造が成立していると考えられる。

 書籍を購入する場合、利用者は直接的な金銭の対価を支払うが、アプリやサイトでは、運営者が広告収入を得ることにより、その収益がユーザーに転嫁される形となっている。即ち、情報の「価値」が、従来のような明確な金銭的対価を伴うものから、広告という間接的な対価に転換している可能性がある。つまりこの対比は「書籍で情報を得る対価として金銭を支払う」と「広告を掲載する対価として無料で情報を得る」という2つの構造的な違いとして考察できる。

5.今後の展望とバランスの必要性

 現代社会において、企業が利益を追求する上でエロ系広告が表示される現状は、広告単価の高さという経済的要因に起因する可能性がある一方、青少年保護に対する懸念も根強い。さらに、広告を運営する側が規制を設けたとしても、不正な広告が完全に排除されるわけではないという現実も、規制や線引きが万能な解決策とはなり得ない理由として考えられる。このような状況下では、表現の自由と青少年保護のバランスを模索しながら、利用者自身も「無料」という恩恵の裏にある対価構造について再認識する必要があると推論される。

 また、情報が無料で提供される現状は、一見すると大きなメリットであるが、その裏側には「広告を見る対価」としてのリスクが転嫁される可能性がある。利用者は、無料で情報を享受できる反面、広告によるユーザーの体験の低下など、別の問題に直面する可能性もあり、利用者が自身の立場とリスクを十分に理解した上で、場合によっては自己防衛策を講じる必要があると考えられる。

まとめ

 本稿では、エロ系広告が表示される現状について、広告単価の高さや企業の収益追求、青少年保護とのジレンマ、規制のすり抜け、そして無料情報がもたらす対価構造という観点から推論を交えて検討した。これらの要素は単なる偶発的な現象ではなく、現代の情報提供サービスの収益モデル全体に深く根ざしている可能性がある。

 今後、表現の自由と青少年保護のバランスを模索しながら、利用者が「無料」という利便性にある対価構造を再認識する必要があるのではないだろうか。