これは「自分が吐露すること」を指すだけでなく、「誰かが吐露すること」も含めての弱者性の吐露に潜む危険性について考えてみた。
まずは「自分が吐露すること」の危険性についてだが、それは、弱者性を利用したアイデンティティの獲得と、弱みを相手に晒してしまうこと。
弱者性を利用してアイデンティティを確立すると、その弱者性を極端に捨てたいと思うも、それができない自己嫌悪か、捨てた後に失うのが怖くて維持したがるかになる。吐露することが多くなるほど、変わりたいと思った時に必要なエネルギーがより大きくなる。そして、相手に弱みを晒すと、人によっては煽ったりと、その弱者性を助長しかねないのではないかと考えている。
「誰かが吐露すること」の危険性についてだが、同じ弱者性でも自分自身と同一ではないし、その再現性も十分ではない。そしてその誰かが弱者性から脱却したとき同一的な弱者性を抱えている者に対して、時に異常なほどに露悪的な言動になりかねない事が多い。
前者に至っては、私含めて大多数がしがちなので気をつけたいのだが、所謂ビリギャルの様に、ビリギャル(ただし、彼女は環境的にも勉学に対して理解が大きい。ビリでも進学校のビリであって、全体で見れば上の層にいる)みたいな話で、表面的・語彙的には同じ弱者性を抱えていても、内実は多種多様で、その誰かは自分より酷な存在であることは少なくない。その表面だけ受け取って、自分と同じと安易に考えてしまうのは危険である。
そして後者の露悪的な言動が多くなるのは、その弱者性を克服したエネルギー消費の反動で、自己優位性の誇示や今までのアイデンティティの消失をどうにか埋めようとしている。私から言わせれてば醜態をさらしているようにしか見えないのだが…。
私がなぜこれが醜態を晒しているように見えるのかと言うのなら、その弱者性の克服は一般的には平然と成し遂げる「普通」になっただけであって、何かを平均から抜け出して成し遂げた訳ではないのに、なぜそれ程までに、自分がお前達とは違うと思ってしまうのかが甚だ疑問だからである。きっと冷笑家が言えば
「いや、それ普通になっただけやんw」
ってもの。
そしてそういった露悪的な言動をする人ほど、その弱者性を現実で笑われてきた奴が多いのは何故であろうか。自分を虐げてきた奴等と同一の存在になっていることに気がついていないのだろうか。それかその気がない「悪意のない悪意」なのだろうか。
実際に自分がもつ弱者性を後天的に克服したときには、同じ罠にハマる可能性は十分にありうるので、人に曝け出さないようにしたい。
それは敵を作らないのと同時に、弱みを晒さないのと同じ…だ。