思考の掃き溜め

20代/雑記/気まぐれ更新

文化的貧困とは

 「貧困」という言葉を聞くと、主に金銭的な貧困を思い浮かべる人が多いと思うが、文化にも貧困が存在する。文化的貧困というのは、豊かな人生を送る為に必要な能力や資源が不足している状態を指している。

 文化的貧困が起こるのは家庭・地域・組織といった環境が連鎖しているのが主な要因と言える。物質的な貧困とは異なり、目に見えにくい形で個人や集団に影響を与える為、その解消というのは中々難しい場合がある。例えば、教育を受ける機会が少ない環境では、知識やスキルを得るチャンスが限られ、結果として社会で求められる能力を育むことはできない(がインターネットの登場によって多少は改善されている)。これによって文化的な貧困が代々続くこともあり得る。また、文化的な貧困は、精神的な健康や社会的な繋がりにも影響を及ぼし、個人の自尊心や社会参加の意欲を低下させることがあると思う。

 ただ、この文化的貧困というのは、その置かれた環境に全く文化的資本が無いわけではなく、曲がりなりに文化資本があっても、その資本を活用する術や知識、活力が無いが為に貧困である。という場合がある。

 意外とこの要因は小さくないとここ最近思う。資源不足というより、活用能力不足。

 文化的貧困の解消には、単に物質的な支援だけでは不十分であり、教育の質や情報アクセスの向上が重要である。個人が持つ潜在的な能力を引き出すための手助けが求められる。例えば、教育機会の拡充や、文化的な活動への参加の機会を提供することが、文化的資本を活用するための第一歩となるだろう。また、個人の意欲を高めることも必要である。社会参加の機会を増やすことで、文化的資本を有効に活用できるようになり、貧困から脱却するための力を養うことができるのではないだろうか。

 

millennium.hateblo.jp

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家庭内を簡素化したい話

我が家では「この時間を目安に入浴」「食事は揃って」と言ったような暗黙のルールが存在する。まぁきっとどこの家庭も同じなんだろうが。

ただ、食事や入浴の呼出に対して逐一答えていくのが、私にとってはとにかく面倒なのだ。無論、呼ぶ側の方も面倒だろう。

そこで先ずは試しにと、それぞれの入浴希望時間を表にして、希望時間にピンを刺すシステムを作ってみたところ入浴までの流れが簡素でスムーズになった。

他のものにも導入したいが、気をつけ無ければいけないのは、システムに縛られすぎないように、という点だろうな。

遺伝か環境か努力か

 スマートフォンの台頭によってインターネットやSNSが手軽に使用出来るようになって、個人間の格差がより可視化されるようになって十数年が経った。個々の才能や努力の結果が多くの人の目に触れる一方で、その裏に隠れる「環境」や「遺伝」といった要因も再認識されつつある。では、格差の本質を理解し、それを縮小するには何が求められるのか。本稿では、「遺伝」「環境」「努力」の三つの観点からその関係性を探り、現代社会における格差解消の可能性について考察する。

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『論理的な人生』or『感情的な人生』

Xの民がいまだに飽きない話題である「デート論」。その話題が最近またTLに流れて来た。

このツイートに引用する形で、

というのが流れてきた。

このツイートを見て私は、

『サイゼデートは初めて行く場所じゃなくて、特別度を下げた段階で行く場所。そもそもデートはレベルを下げるもの。』 っていう論理はわかるし、実際チェーン店を初デートで使うわけ無いんだけど、感覚的に語るとなると「来賓者気取り」とか「良いお店は大切にしたい人と行きたいし、まだそうで無い関係なのに、なるかわからないのに、金を落としたく無い(奢りたく無い)」って思う。

金額が小さいといえど若いうちは負担になるし、損得がわからない投資は避けたいよね。

と思った。

この前者のように『論理的な人生』を歩むべきなのか、後者のように『感情的な人生』を歩むべきなのか、20余年の人生を振り返って改めて考えてみることにする。

『論理的な人生』

 まず、論理的な人生というのは

  • 世間がいう「生き方の鉄則」に則った人生設計
  • データ等といった客観的な情報に基づいたもの
  • 目標に対してのアプローチの仕方を具体的に考える

などといった特徴を持つものだと言える。

例えば、前者の「サイゼデートは特別度を下げた段階で行く場所であり、初デートには適さない」という論理は、

  • 初デートは相手に良い印象を与える場であり、適度な特別感のある場を選ぶのが合理的
  • デートには段階があり、相手との関係が深まるごとに、形式ばった「特別さ」よりも、気軽さや日常感を共有することが重視される
  • そのため、初デートでのチェーン店利用は、場の雰囲気や期待値にそぐわない場合がある。

このような論理的な考え方は、恋愛だけでなく、日常生活の様々な場面で役立つ。例えば、受験や資格取得においては「短期的な感情に流されて怠けるより、計画的に勉強した方が合格する可能性が高まる」というように、目標に向けて論理的に行動することが重要だ。一方で、友人関係では感情が重要な役割を果たすことも多い。論理的には「自分の利益にある人間関係を築こう」と考えるかもしれないが、感情的な共感や信頼がなければ長続きしない人間関係もある。

『感情的な人生』

一方で、感情的な人生というのは

  • 自分が「こうしたい」「こう感じる」という直感に従って行動する
  • 他人の気持ちを汲み取り、それに基づいて行動を変化させる
  • 結果よりも、その過程や体験に対する満足感を重視

などといった特徴を持つものだと言える。

例えば、私の感覚的な考えとして挙げていた「まだ、確信を持てない相手に対して、過剰にリソースを割きたくない」(本当に過剰かは置いといて)という損得勘定も感覚的なものとして含まれてる。これは「大切な人に価値ある体験を提供したい」という内なる感情に基づいているため、相手の感情や関係性をより重視する場合には有効かもしれない。

どちらが正解なのか

『論理的な人生』と『感情的な人生』は対立する概念に見えるが、実際には両方が必要だと言える。世の中白黒ばかりでは語れない。20余年の人生を振り返ってみると、中学校の時は論理に頼りすぎて心が豊かな人生を余り、送れていなかった様な気もするし、高校の時は感情に頼り過ぎて結果的には豊かではなかった気がする。両者をうまく使い分けることが、幸せな人生を送る鍵になるのではないだろうか。それぞれの場面に応じて、両者をバランス良く取り入れることが、「自分らしい」生き方を見つけるポイントとなるだろう。

「面倒くさい」は成長機会の損失

 私が中学生・高校生の頃、自主的な企画やイベントへの参加は殆どしなかった。それは参加や行くのが「面倒くさい(それか斜に構えた考え方をしていたか)」からが大半の理由を占めていた。

今思えば本当に勿体無い考え方だ。自分の思考視野を広げる良い機会なのに、「面倒くさい」の一言で片付けてしまっていた。

 それに経験の積み重ねが人を創り出すのに、それすら知らずに学生生活を過ごしてしまった。

 もちろん都合が悪いだとか、経済的・心理的負荷が大きいのならイベントへの参加を躊躇うべきではあるが、「面倒くさい」という短絡的な考えで成長の機会を失ってしまうのはあまりにも大きいものだろう。